布団の中でだけ育つ植物

妖精に乳首はねえ

暇が書いた遊びと、暇を潰す遊びと、暇を書く遊び

首のないシマリスがひょこひょこと歩いてくるとして、私にはそれが首のないシマリスだとわかるので、首の有無は生き物の定義に関わらないんだねと思い、首の有無は修飾語にすぎません。どこまで欠けると私たちは他の生き物になってしまうのでしょうね。どこまで欠けると修飾する語とされる語は主従を入れ替えてしまうのかしら。首のないシマリス、首と尻尾のないシマリス、首と尻尾と毛のないシマリス…。でも一つだけ間違いのないことは、縞のないシマリス、そんなのシマリスじゃないってこと、シマリスというのはそれぞれの家族が代々守り受け継いできた複雑で高貴な縞を持った、誇り高いリスなの。それに比べて人間という生き物の気持ち悪さったらないわねえ、なんであんなにつるつるしてるのかしら、毛も頭のてっぺんにしか生えていないし、足も体全体もいやに細長いわ。それにわざわざ二本足で歩くんですって。なんのために神様が四本も足をつけてくださったのか、知らないのかしら。ちょっぴりおつむが足りない生き物なのね。それに尻尾もない!私たちみたいに美しくって、ふさふさとした縞模様の尻尾ではないにせよ、普通どんな生き物だって尻尾はあるわよ。それにしても首がなくなって、木の実を拾い集めなくて済むようになって助かったわ、おなかが空くのは胃袋のせいじゃなくって、口のせいだったのね。口があるからお腹が空くのね。

 

 

 


Wintergatan - Marble Machine (music instrument using 2000 marbles)

人間が最近作った、もっとも優れた暇を潰す遊び

 

 

 

 

 

ウーン、早くこの人間性の地獄から抜け出したい。ドアを開けて、閉める。本を開いて、閉じる。栞も挟まずに。立ち上がって、座る。穴を掘って、埋める。何もないことをずっと続けていられるほど狂ってはいないから。かといって動くこともしたくないほどには凝り固まっているから。人を、開いて、その肉と糞便と血とが詰まっただけの袋であることを、確認したくない。いつまでも私を夢見る乙女でいさせて。ただ食べただ飲みただ寝て毎日過ごしていますけど、本当に私は目標無く生きるのが下手なくせに目標を立てるのは億劫で、さっさと他の人に私のための道標を立ててほしい、そうしてくれたら頑張れます頑張りますとも。ああ主体性のない人間、きっとおんなじように考えている人間はきっと百万人はいて、掃いて捨てるほどいて、みんなも大変だねえ一緒に頑張ろうねえ何を頑張ろうねえ困ったねえという具合に何にもない日常を過ごしています。うつぶせでないと寝られない私の顔はやはりどんどん変形していくのかしら。何にもない日常で私の顎だけがどんどん削れていくとしたらそれはそれで結構なことです日常に変化を求めないくせに変化が全くないと文句を言うつまらない人間なので。

太陽の下、月の下

寝て、起きたら、体重が1kgも増えていた。さすがに笑ってしまって、とうとう私の体は質量保存の法則に囚われない体になったのか、それとも夢遊病患者になって必死に米でも食べたのか。夢遊病というファンシーな名称からは程遠い眠り動くゾンビは、いや、動き眠るゾンビか、まあどうだっていいけど、きっと彼は太陽が昇っている間に自分が我慢したことを月の昇っているうちにするんでしょうね。昔から月と狂気は一つのものでした。

 

 

 

東京とかいう、日本で一番人間の多い街に行ってきました。人間が多い街で一番初めに見かけた人間は、携帯電話に向かって「こっちが右!!!!!」と気の狂ったような大声で叫ぶババアでしたので、ハハーン人間の多い街で人間は皆狂ってしまったのだなと思いました。先日は大阪のコンビニのイートインで歯が全て抜けたジジイと会話していたとき、割れたスマートフォンの画面を見せたとたんに「殺すぞ」と言われたので、どこにでも狂った人間はいる。人間という母数が多いから狂った人間も増えるのか、それとも人間が多いことによって人間が狂うのか。

 

 

 

東京では浅草で延々と酒を飲んでいたせいでほとんど何も覚えていないけど、夜も遅くにせっかくなので浅草寺を見に行って、仁王像の阿形の乳首がめちゃくちゃデカいと笑っていたらしい。観光なんて案外こんなものでいいのだろう。

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 突起の度合いがものすごい。

 

 

 

 

そういえば最近尻の穴がとにかく痛い、辛いものを食べ過ぎた翌日のような痛みが続くのだと友達に言うと、東京の安宿で襲われたのではないか、お前はその辛すぎる記憶を消しているだけだ、という回答が帰ってきた、もしかすると夢遊病の性豪が東京にはいるのかもしれない。私はその被害者なのかもしれない。太陽の下で相手を見つけられなかった性に猛るゾンビは今夜も月の下で眠りながら彷徨っているのかもしれない。

桜のこと

若い緑の芽が萌え、濃い桃色の粒たちがなり、他の奴らがとうに散ったころにおっとりとその薄桜を咲かせ、そんな中途半端な葉桜はとてもきれいで、どうして葉より花が先に開くのかしらと思いながら橋の上から見ていた水面に映る桜もあっという間に散り、いつの間にやら私の最も好きな姿へとその形を変え、ああこれは良いと思っておりましたのも束の間、先日の大雨がすっかり遅咲きの花弁もみな洗い流し、これではただの緑の木、これからは夏の訪れを予感させるだけしか能のない力強くつまらない木となってしまいました。若く光に輝く緑と、濃くしっかりと己を感じさせる桃と、他の二つに比べて少し呆けた薄紅色の、美しい三つが綺麗に整っておりますから、褒め、愛してもいましたのに、そのうち一つでも欠けてしまえば私のつまらない感性の中では別段素晴らしいものにも見えなくなってしまいます。きっと彼らはそんな私のことなど意に介すことなく強く三つの季節を乗り越え、次の萌芽へと向かうのでしょう。

ゾンビに成長する

延々と偽りの自分を抽出し、体裁を整え、描き、といった特段おもしろいこともない作業を繰り返しているとたぶんそのうち気が触れる、でもみんなやってるし僕もやる、気が触れることでみんなの仲間入りです。ゾンビは人間から見れば気が触れているけど、ゾンビにもゾンビなりの考えがあって、アーウーとよたよた歩いて来て人間に噛みついてそいつもまたゾンビへと変えてしまうのは、ゾンビになることが人間であることよりも幸せで優れているから。ゾンビは人間以外のものを食べませんし、人間に関しても食べているのではなく人間に噛みついてそいつを仲間にするため。人間のように牛や植物を食べることもなく、ゾンビは地球にやさしいのです。偉大なる漫画家が言っていたので間違いありません。ともかくまあそれと同じことで、気が触れていないうちは気が触れることを特別恐ろしいことであるように考えますけど、それはただ自分の知らないものにレッテルを貼っているだけで、あちらこそが正常で本当は気が触れているのは私たちかもしれないのに。要は自分が特別だと思っているから、そのような人たちを見て気が触れていると言うのです。といってもその内実は自分の現状から新たな段階に適合するという一般的な成長であるにすぎないのに、みんな同じになっているとはとてもとても言えないのに、傲慢にも他の人間を一括りにして、己は彼らとは一線を画した優れた点のある人間であると心のどこかで期待しているからこそ、その成長を画一化だとか気ちがいだとか、そうやって罵るのです。須く人間は己を特別な人間であると期待してしまうことそれ自体は決して罪ではないけれど。

本宮ひろ志に性を教わった男の最近

竹は近づいて群像として見ると荻原朔太郎が余すところなく詠み描いたように力強く、太く青々とした、びゅうびゅうとした幹をその身の一番としています。夜の竹林は恐ろしい、ふと足を止めて空を見上げると背の高い幹たちが覆い被さってくる。しかしいざ、一本一本を取り出してぼんやりと眺めてみると、その自慢の幹にはあまり目は止まらず、幹から細く分かれた枝にピントが合います。一本一本を見ると、あれだけ威勢のよかった竹も頼りなく映り、綺麗に食べ終えた焼き魚のようで、つまらなくはありながらも竹林として見るよりも少し可愛らしい思いで、眺めることができます。



この間はキリスト教の教会の裏手にある山を登った。とはいえ整備された山などでは全くなく、教会の牧師先生が50年前に無理矢理道を切り開き、祈りの小屋を建てるために作った半ば獣道のような道で、急勾配のつづら折れが果てしなく続く。牧師先生は10年ほど前に引退なさり、その息子がそのあとを継いだそうだが、その息子は道を切り開く途中倒れる木に敷かれて他界された。延々と続く道はそれでもいつしか終着につき、200メートルほどは登ったか、切り開かれた道は途切れ、少し開けた所には黄色の大きな十字架がある。息子さんが亡くなる直前に建てたのだそうで、そこにしんと立ち尽くす十字架に人は何を思うか、例え事情を知らずとも、例え宗教が違っても、見る人に大きな情熱を感じさせずにはいられない不思議な土地で、山のなかに隠されたその地で確かな満足を得て戻る急勾配は、来たときよりもずっと短かった。



先日はまた、北海道にも行きました。まだ雪は残っていて、コロコロと変わる天候に悩まされながらも楽しく美味しく北海道を堪能しました。曇り空の下、どこまでも真っ白な雪原を見て、はてどこかで似たものを見たなと考え込むと、飛行機が雲の層と層の間にいるときの窓の景色にそっくりで、境目がなくなり一切が起伏のある白と映る様は大変美しい、空も雪国も似たような様子であるのは大変面白く、雪国の鳥は曇り空の日はきっと困ってしまうに違いないとか、そんな風なことを思った。



まっとうな日記を台無しにするようですが、私の性に初めて出会ったときの話です。お待たせしました。
子どもの頃通っていた教会には印刷室という部屋があり、部屋の中には妖怪人間ベムこち亀の初期といった古い漫画がたくさん置いてあったのだが、それらの漫画のなかに「天地を喰らう」もあった。三国志をベースに神や地獄の鬼がハチャメチャに暴れまわる最高にクールな本宮ひろ志氏の作品なのだが(ピンと来ない方も「サラリーマン金太郎」はご存じだろう)、その中で普通の人間の十倍ほどの背丈もある大男の董卓が何人もの女性に己の体を舐めさせるという酒池肉林エピソードがあり、教会という場所に不釣り合いなそのエピソード、漫画は私の頭をガツンと殴った。別に今私はそういうペロペロ大好き魔人というわけではないので、真っ当に育ててくれた両親に感謝する他ない。他に本宮ひろ志に性を教わった人間がいましたら、ご一報ください。
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破裂する牛と、お菓子のランドセル

先日から読み進めていたスコットランド民話集がどれもあまりにもひどくて、物語の大筋と全くかかわりのない農家や牛なんかがお腹を破裂させて死んだり脛をへし折られたりと悲惨な目に合い、しかもその後一切言及されず野垂れ死ぬのはいったい何故なのか、こんな話を聞いてスコットランドチルドレンはけらけら笑うのかと思うとスコットランド人の思想は何とも暴力に根差したものなのかと思われ、人種の壁というのは即ち文化の壁、哲学の壁でもありそれはとても厚い。相手が何を言っているかわからないけど少しおもしろいことを言ったような顔をしているときには「哲学ですねえ」と言っておけばたいていうまくごまかせるもので、そんなふうに哲学という言葉を用いる私は、せっかく人間に与えられ人間を人間にしてくれる思考という武器を放棄した大変薄っぺらな肉の塊です。しゃぶしゃぶです。私はしゃぶしゃぶ屋で働いていますが、先日お偉いさんが宴会をしたときは大変ひどかった、しゃぶしゃぶ屋で力士に口内射精の物真似をさせないでほしい。最近お店で聞いた一番良かった話は、接待麻雀で相手から役満を上がってしまい、しかもあまりに嬉しくて万歳と叫び左遷された阿呆。

 

 

 

 

 

誕生日プレゼントにお菓子でできたランドセルを頂きました。まるで童話のような響きをもつそれは、思いのほか身体にしっくりときて、しっくりときすぎて、少し腕を動かそうものならクッピーラムネでできた肩ベルトが弾けそうになります。ランドセルの中には製作途中で食べてしまったのであろうお菓子の包装ゴミが入っていて、諸行無常などを感じます。そんなわけで誕生日を迎えましたが、生まれてこれまで人間として生きてきたのにいまだに人間として生きるコツはさっぱり掴めずにいます。哲学ですねえ。

笑顔で生きる

知人のおばさんがいつの間にか少しスピリチュアルな雰囲気のする動物福祉団体に所属していて、動物の命の尊さや毛皮として利用するために乱獲することに対して何らかのメッセージを発信している。最近はどうやら若い人々を団体に引き込みたいらしくいくつかのイベントを開催するようなのだけど、その目玉としてシャボン玉を撒き散らしながら動物の脈拍に合わせてダンスをするバブルディスコなるものをやる予定らしい。フロアをアゲていくためにモルモットなどの小動物の脈拍を使ったり音圧を重視してゾウの脈拍を使ったりするDJがいるということだろうか。失礼ながら60才くらいの知人女性がゾウの脈拍で腰をくねらせるのは一度見ると一生の宝になる気がするので参加を検討しているところだ。落ち込んだ時に思い出したい。落ち込んだ時に思い出したい宝物情報としてはアジャコングが高所恐怖症な事、地下デスマッチプロレスで火をつけた机に相手を叩きつけようとして間違って自分が飛び込んでしまったVampiroなどです。

 

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アジャコングのやさしい素顔を思い出すだけでも笑顔になれる、ありがとうアジャコング。